退職のタイミングは、最も労働問題が噴出しやすい場面です。
退職時の引き継ぎは、労使の意見が対立しやすく、トラブルの火種となりやすいです。退職する側にとっては「辞めた後の会社のことなど関係ない」というのが本音かもしれませんが、企業側にとっては経営に関わる深刻な問題です。
法的には、意思を伝えて2週間を経過すれば退職でき(民法627条)、その間は年次有給休暇を取得できます(労働基準法39条)。会社が対策を講じなければ、引継ぎしないまま退職され、業務に混乱が生じるおそれもあります。そこで、引き継ぎを拒否したり無視したりする社員に、法的に引継ぎを義務付けることができるかが問題となります。
今回は、退職時の引き継ぎを拒否する社員に対して、企業が取れる対策について、企業法務に強い弁護士が解説します。
- 業務引き継ぎは労働契約上の義務だが、拒否されると企業の損失は大きい
- 退職時の引き継ぎを拒否された場合、悪質なら損害賠償請求を検討する
- 労働者への事後の制裁だけでなく、事前の予防策や協力体制が不可欠
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退職時の引き継ぎは義務?
退職時の引き継ぎについて、直接的に義務付ける法律は存在しません。
一方、法令上の義務ではないものの、労働契約に基づく業務命令権の一環として、退職時の引き継ぎを行う契約上の義務があるとされます。
会社は、労働契約に基づいて、雇用する社員に業務を命じる権利(業務命令権)があります。この業務命令権は、労働契約の締結によって当然に認められるものです。そのため、労働者として雇われれば、会社の業務命令に従う義務を負います。
退職時の引き継ぎも、正当な業務命令の一種です。
退職直前でも、退職日までは労働契約が継続しており、従業員は会社の指示に従う必要があります。有給休暇を取得して出社を要しない状態でも、労働契約そのものは有効です。
したがって、会社には退職時の引き継ぎを命じる権限があるのです。
多くの企業は、退職時の引き継ぎを命じる権限について、就業規則などの規程に明記しています。これは、業務命令権に基づいて当然に命令できることを確認的に記載したものです。
つまり、退職時の引き継ぎは、労働者が当然に果たすべき「信義則上の義務」です。法律に明記がなくとも、労働契約上当然に認められる義務であり、就業規則に記載して社員に周知し、引き継ぎ拒否を予防すべきです。違反した場合の懲戒処分についても、就業規則に定める必要があります。
就業規則の記載例は、例えば次の通りです。
第XX条(退職時の引き継ぎ)
労働者が退職し、または解雇される場合は、会社の指定した後任者に対し、指定した期日までに業務の引き継ぎを完了し、所属長にその旨を報告し、その確認を得なければならない。
第XX条(懲戒処分)
1. 労働者が次のいずれかに該当するときは、情状に応じ、けん責、減給又は出勤停止とする。
XX ……第XX条(退職時の引き継ぎ)に違反したとき
……(略)……
2. 労働者が次のいずれかに該当するときは、懲戒解雇とする…
XX ……第XX条(退職時の引き継ぎ)に違反し、その情状が悪質と認められるとき
退職時の引き継ぎを拒否された場合の対応
次に、退職時の引き継ぎを拒否された場合に、会社が取るべき適切な対応を解説します。
退職時の引き継ぎは義務である説明しましたが、それでも従わず、退職直前になっても拒否する社員も少なくありません。業務への影響は深刻なので、会社として対策は必須です。
損害賠償を請求する
退職時の引き継ぎが義務である以上、拒否する行為は労働契約の債務不履行であり、会社の被った損害の賠償を請求することができます。ただし、損害賠償請求が認められるには、以下の3つの要件を会社側が立証しなければなりません。
- 債務不履行
引き継ぎが全く行わなかった場合や、指示通りにしなかった場合、期限までに完了しなかった場合、内容が著しく不十分だった場合などが該当します。 - 損害の発生
会社が実際に損害を被ったことを立証する必要があります。 - 因果関係の存在
引き継ぎ拒否と発生した損害との間に因果関係が必要となります。
あくまで因果関係のある部分に限るので、会社の被った損害の全てが補償されるとは限りません。以下のような悪質なケースでは、損害賠償が認められる可能性が高まります。
- 損害が生じると知りながら、業務上重要な情報を故意に破棄した。
- 転職時に顧客を奪取する目的で、あえて引き継ぎを怠った。
- 緊急対応が必要な状況で、引き継ぎを意図的に拒否した。
どのようなケースで、退職時の引き継ぎ拒否を理由とした損害賠償請求が認められるかは、次の裁判例が参考になります。
入社1ヶ月(実働4日間)で退職した元社員に対し、会社が損害賠償を請求した事例。退職者は、200万円の損害賠償を支払うと合意した上で、会社に対し、やくざを使った恐喝行為だといった内容証明を送り、訴訟でも同様の主張を繰り返しました。
裁判所は、退職後の事情や労働者の悪意を考慮し、70万円の支払いを命じました。
うつ病を理由に退職した社員に対し、退職理由が虚偽であり、業務の引き継ぎをしなかった点について、会社が1270万円の損害賠償を請求した事例。
しかし裁判所は、引き継ぎ拒否と損害の因果関係を否定し、請求は不当であると判断しました。逆に会社側に対して、年収の5倍に相当する賠償金の請求は不当訴訟であるとして、110万円の慰謝料の支払いを命じました。
有給休暇の時季変更権を行使する
労働者には退職の自由があり、申し出から原則2週間で退職可能です(民法627条)。そのため、強引な引き止めや退職の妨害は違法です。会社側は、退職日を一方的に変更することはできず、未消化の有給休暇が存在する場合には、引き継ぎの時間すら取れないケースもあります。
このような場合、有給休暇の取得時期を調整するために「時季変更権」を行使する方法があります(労働基準法39条5項)。これは「事業の正常な運営を妨げる場合」に限り、会社が有給の取得日を変更できる権利です。退職時の引き継ぎが行われないことで事業に大きな支障をきたす場合、この要件を充足する可能性は大いにあります。
有給休暇を買い上げる
時季変更権はあくまで、労働義務があることを前提としています。
そのため、退職日以降に取得時期を変更できるわけではなく、有給休暇の残日数が退職日までの日数を上回る場合は、時季変更権を行使しても引き継ぎをさせることが困難です。この場合、退職日を後ろ倒しにできないか、社員と交渉するのが現実的です。そして、転職先の都合などで退職日の延長が難しい場合は、未消化の有給休暇を買い上げる方法も検討しましょう。
引き継ぎの重要性を考えれば、一定の金銭を負担しても、円滑な引き継ぎを確保する意味合いは大きいと言えます。
懲戒処分を下す
引き継ぎ拒否が悪質な場合には、懲戒処分の対象とすることも可能です。
懲戒処分は、就業規則に基づいて、企業秩序を乱した社員に下す制裁です。あらかじめ就業規則に「退職時の引き継ぎ義務」と「違反時の懲戒処分」の規定を設けておく必要があります。
既に退職日が決まっていても、その前に引き継ぎを拒否した行為については、在職中であれば懲戒処分を行うことが可能です。引き継ぎをせずに無断欠勤を続ける場合は、その欠勤自体を懲戒処分の理由とすることもできます。
解雇を検討する
懲戒処分でも改善されず、極めて悪質な状況であれば、解雇を検討します。
懲戒処分と同じく、退職予定であっても解雇は可能です。ただし、解雇は、解雇権濫用法理により厳しく制限されており、客観的に合理的な理由がなく、社会通念上相当でないと判断される場合、無効となる可能性があります(労働契約法16条)。
また、懲戒解雇と同時に退職金を減額または不支給とする方法もありますが、退職金には功労報償的な性質があり、引き継ぎ拒否が在職時の功績を帳消しにするほど悪質であることが必要です。
インセンティブを支給する
一方で、強制ではなく、引き継ぎを促すために、インセンティブを与える方法も有効です。
例えば、退職にあたって業務の引き継ぎを滞りなく行った社員には退職金を上乗せする、特別手当を支給するといった金銭的メリットを提示するケースです。このような柔軟な対応は、トラブルを未然に防ぎ、円満退職を実現する上でも有効です。
退職時の引き継ぎ拒否を防止する対策
次に、退職時の引き継ぎ拒否を防止するために、会社が講じるべき対策を解説します。
引き継ぎを拒否した社員への制裁など、事後的な対応を解説しましたが、実際に引き継ぎが行われないと業務が停滞しますし、顧客や取引先にも迷惑がかかります。最悪は、重大な機密情報が漏洩したり、ノウハウが喪失したりといったリスクも否定できません。
社員間で情報を共有する
業務が特定の社員に属人化しているほど、引き継ぎ拒否の影響は大きくなります。
そのため、日常的に社員同士で業務内容やノウハウを共有し、マニュアルや手順書を整備することで業務の平準化を図るべきです。業務データをクラウド上に一元管理し、個人のローカル環境に抱え込ませない運用なら、引き継ぎ範囲を縮小できます。幹部社員しか知らない情報や、1人で全てを担当している顧客など、情報が個人に依存する状態は非常に危険です。
これらの取り組みは、トラブルで退職する場面だけでなく、病気や事故などで突発的に業務を離れざるを得ない場合にも有効です。
引き継ぎ完了を退職金の支給条件とする
引き継ぎ拒否の予防策として、完了するまで退職金を払わないという方法もあります。
退職金や最終給与は、労働者にとって重要な対価なので、引き継ぎを促す強力なプレッシャーとなります。法律上、退職金の支払いは義務ではないので、会社が支給条件を設定することが可能です。引き継ぎの完了を条件とする場合、就業規則や退職金規程に明記する必要があります。
退職金規程の記載例は、次の通りです。
第XX条(退職金の支払期限)
退職金は、退職日(退職までに引き継ぎを命じられたにも関わらず、退職時に引き継ぎが未了の場合には、引継完了日)から3ヶ月以内に、退職した労働者(死亡による退職の場合はその遺族)に対して支払う。
退職の予告期間を長めに設定する
引き継ぎを確実に行うには、退職日までに十分な準備期間を確保することが重要です。
会社が、早期に退職の意思を察知し、速やかに引き継ぎを指示できるよう、就業規則上、退職の予告期間を長めに設定しておきます。例えば、「自主的に退職する場合、退職日の2ヶ月前に申告すること」といった条項です。
もっとも、法律上は、労働者が退職の申出をしてから2週間が経過すれば労働契約は終了します(民法627条)。法的な強制力はないものの、就業規則に定めておけば、円満退職を望む多くの社員にとっての協力の指針として機能します。
引き継ぎしやすい職場環境を整備する
引き継ぎを行いたくても、それが困難な職場環境では、社員の責任は問えません。
むしろ、引き継ぎが進まない原因が会社側にあるとき、その義務を果たせなかった社員に責任はなく、不利益を課すのは不適切です。例えば次のケースは、引き継ぎを拒否されたとしても仕方がない事情があると認められます。
- 社長のパワハラがひどく、出社自体が困難である。
- 退職理由となった上司が引き継ぎ先となっている。
- 過重労働により精神的・身体的に引き継ぎ対応ができない状態である。
このような事態を防ぐためにも、会社は引き継ぎがスムーズに行える職場環境を整備する必要があります。後任者を早期に決定し、引き継ぎの内容を文書化する、チェックリストを用意する、具体的な手順を示すなどの工夫が求められます。やむを得ず出社が困難な場合も、メールや郵送、オンライン会議など、柔軟な手段での引き継ぎも許容すべきです。
退職時の引き継ぎトラブルの注意点
最後に、退職時の引き継ぎトラブルを解決するのに大切な注意点を解説します。
引き継ぎを理由に退職を妨害するのは違法
労働者には「退職の自由」が認められており、これは憲法上の職業選択の自由の一環です。
そのため、たとえ引き継ぎを拒否されても、退職を妨げることはできません。「引き継ぎが終わるまで退職させない」という対応も、実質的には退職妨害であり違法です。また、労働基準法5条は強制労働」を禁止しており、本人の意思に反して労働を強いることも法律違反となります。
したがって、会社側の講じるべき対策は、「引き継ぎを完了しないと退職できない」と強制することではなく、「引き継ぎを行えば退職金が増額される」「円満退職ができる」といった形で、引き継ぎを促すインセンティブを提示することです。
信頼関係を構築してトラブルを予防する
引き継ぎを拒否して退職を強硬されたら、事実上、業務への支障は避けられません。この最悪の事態を未然に防ぐには、労使の信頼関係を日頃から築いておくことが重要です。
引き継ぎ拒否の影響の大きい、地位や役職の高い社員ほど、相応の評価と報酬を与え、会社に信頼や恩義を感じてもらい、退職時にも積極的に引き継ぎをしてくれる関係性を構築すべきです。結果として、退職時にも会社に配慮し、自発的かつ誠実に引き継ぎを行ってもらえる可能性が高まります。
このように、損害賠償や懲戒処分といった制裁で不利益を与えるのではなく、引き継ぎをしてくれた社員にインセンティブを与える方が、実務では効果的です。引き継ぎでトラブルを起こす社員は、会社の事情など全く考えず、残業代請求、ハラスメントの慰謝料請求など、別の労働問題を併発するケースも多いので注意が必要です。
まとめ

今回は、引き継ぎを拒否する社員に対し、会社がどう対処すべきかを解説しました。
労働者には「退職の自由」が保障されており、辞めないようにと引き止めることはできません。「引き継ぎを義務付け、違反した場合は制裁を下す」といった対応も、実質的に退職の自由を制限するに等しく、不適切です。そのため、社員が自主的に引き継ぎをするよう環境を整え、退職条件を整備する必要があります。
退職に伴う労働問題を未然に防ぐには、社員との丁寧な話し合いが必須です。解雇せざるを得ない場合はもちろん、自主退職でも、社員が不満を抱えるケースは少なくありません。労働者の不満に向き合わずにいると、引き継ぎへの協力を得られないばかりか、労働トラブルに発展しかねません。
退職時の対応に不安がある場合や、問題が複雑化している場合は、早めに弁護士へ相談することをお勧めします。
- 業務引き継ぎは労働契約上の義務だが、拒否されると企業の損失は大きい
- 退職時の引き継ぎを拒否された場合、悪質なら損害賠償請求を検討する
- 労働者への事後の制裁だけでなく、事前の予防策や協力体制が不可欠
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